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2014.08.27
認知について
Category : ブログ
<名古屋でカウンセリングを重視した心療内科クリニック、船山メンタルクリニックです>
不安についての話ばかりになってしまったので、ちょっと話題を変えます。
認知について考えてみようと思います。
認知とは“人の考え方”であり、“その場面で頭の中をよぎる言葉”です。
認知療法や認知行動療法を求めて当院にご相談いただくことがありますが、この治療における期待と誤解がいくつかあるように感じました。
認知療法の考え方の基礎にあるのは、「ある出来事、状況が生じたことによって、ある気持ち(不安や落ち込み)が生じるとは限らない」という仮説です。例えば“仕事で失敗した”→“落ち込んだ”という気持ちの生じ方には、もしかすると「これくらいの仕事はしっかりできないと社会人失格だ、なんて自分はだめなんだ」という考え・認知が介在しているということです。
この仮説に基づいて認知療法が提案するのは…「認知が変われば気持ちが変わる」ということです。患者さんに対してこの治療の持つ“暖かさ”のようなものの基礎は「気持ちは変えられないと思っていたでしょうけど、気がつかなかった考えに気づくと、もっと気持ちは楽になるんですよ」という提案だと私は思っています。
しかし、伝えている内容は一緒に見えても「正しい考えをすれば楽になるんだ」と、いつの間にか自分の話ではないように思われてしまうことがあるようです。世の中に正しい考えと間違った考えがあるわけではないのに…。
認知療法で目指すのは“考えの修正、矯正”ではありません。ましてや正しいことへの教育、誰かが正しいことをしてくれることではありません。
今まで気づかなかった自分自身によって、自分が癒されるという過程なのだと思っています。
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2014.08.12
不安障害の症状は“不安症状”ではない?
Category : ブログ
<名古屋で医療とカウンセリングをあわせて提供している心療内科クリニックの船山です>
久しぶりのアップです。
不安は日常的に誰でも感じているものです。家のドアの施錠確認が1回で終わるのは「絶対に鍵はかかっている、大丈夫」と確信するからではなく、日常的に1回の確認をしているルーチンの中にある行動だからです。不安はよくよく考えると理屈で説き伏せられるように解消するものではないものです。
しかし、不安によって生活が不自由になると、「本当にそれで大丈夫なのか」「どうしてそうなるのか」と絶対の安心と原因を求め始めます。この心理によって、不安という本来正常かつ必要な心理的な働きが自身を苦しめるようになります。
不安とは入れ物のようなもので、“不安”自体が病的なものではないと最近強く感じています。ましてやその時に不安があることを示しているに過ぎない “不安症状”(例えば息苦しさ、動悸などの身体症状、パニック症状)自体は病的ではありません。不安は症状になる前から自分の一部だったのです。
「不安の“文脈”を考えて」どのようにしたらよいか…
これは様々な場合があるように思います。
いずれにしても不安から距離をとって、生活における“不安の機能”を考える必要がありそうです。
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2014.08.04
夏期休暇について
Category : ニュース
<名古屋の心療内科、メンタルヘルスクリニックの船山です>
8月13日(水)〜8月16日(土)は夏期休暇とさせて頂きます。
週明け8月18日(月)より通常通りの診療を行います。
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2014.04.15
鯉のぼりを飾ってみました
Category : ブログ
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2014.04.05
不安には“文脈”がある
Category : ブログ
<名古屋でカウンセリングを重視した心療内科クリニック、船山メンタルクリニックです>
不安は恐怖と違って、“これから起こること”への懸念であり、しかも全く偶発的に起こるものへの懸念は“今どのように行動したらよいか”の葛藤を起こさないので、今の状況に関わる何かが“悪い結果につながりそうだ”という予想を含んでいます。
「顔が赤いから→気が小さい人だと思われる」
「電車だとすぐに降りられないから→発作で倒れると手遅れになる」
「この間も仕事がうまく行かなかったから→今度もだめだろう」
などです。
つまり不安には、条件文で示されるような“文脈”、“仮説”があります。
不安の原動力は、危険から逃れようとする欲求ですが、この気持ちがおかしいと思う必要も是正しようとする必要もないのではないでしょうか?
『不安がいけないものか?』を考えるにあたって、そもそも“不安”という得体の知れないものが自分から独立して存在しているかのような解釈の仕方が間違っているような気がします。
つまり…“不安という症状は存在しない”のかも知れません。
不安の扱いに悩み始めた時…「どのような時に→どうなってしまうと恐れるのか」と文脈を考えることは役に立つかも知れません。
それでも「そうしたら不安がなくなるんですか?」とさらに安心を求めようとしてしまうものです。周囲から“安心を与えてもらえる”ことを求め続けても限界があります。なぜなら不安は“自分の頭の中の懸念”から大きくなるのですから。